いのちのはなし

数年前、東京でカイロプラクティック哲学の講義を受けた。

 

 

いのちとはなにか?

 

 

健康とはなにか?

 

 

カイロはなにを目指すべきか?

 

 

 

こんなことを深く深く考えていく学問である。

 

 

 

 

 

 

正解はない。

 

 

テキストを丸暗記してOKというわけではない。

 

 

どれだけ深く、自分でその問題について考えたかに価値がある。

 

 

 

 

『植物の存在意義は?』

 

 

という質問があった。

 

 

私は帰りの飛行機でずっと考えた。

 

 

 

 

植物は・・・酸素をつくる。

 

 

それは動物のため?

 

 

うーん、それは人間目線でしかない。

 

 

 

 

植物は食物連鎖では、底辺に位置する。

 

 

植物を草食動物が食べ、それを肉食動物が食べ・・・

 

 

植物がないと、他の生物が生きていけない。

 

 

酸素の濃度もおかしくなるし、気温も上昇するかも。

 

 

 

 

もちろん水も、太陽も、海も、土も、昆虫も、すべてのバランスのなかで必要とされている。

 

 

 

 

 

この世に無駄なものはない。

 

 

このバランスのなかに、底辺も頂点もない。

 

 

すべては自然の摂理のなかで意味があって生きている。

 

 

もちろん人間も同じ。

 

 

すべての人間に生まれてきた意味があって、価値がある。

 

 

 

 

 

植物が存在している理由は、自身も含めてすべての生物を生かすだめだと思った。

 

 

そして、他の生物が存在しているのも同じ理由だ。

 

 

私のいのちも、他の人間のために生かされているいるのだと思える。

 

 

私はいのちとはなにかを学んだ。

 

 

 

 

私は飛行機のなかで悟りを開いた。

 

 

後光が差して、飛行機のなかで光っていたに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カイロプラクティック哲学のなかで

 

 

『リンゴが死ぬ瞬間はいつか。』

 

 

という有名な例え話がある。

 

 

 

 

 

腐ったリンゴは、もう新鮮には再生しない。

 

 

だから、この時点でリンゴは死んでいるんじゃないか。

 

 

再生能力の有無は、いのちを語るうえで重要なキーワードとなる。

 

 

 

 

 

いや違う。

 

 

リンゴが死んだ瞬間は、枝から地面に落ちたときだ。

 

 

木から分離した時点で、リンゴは養分を吸収できなくなり、再生能力がなくなるから。

 

 

 

 

 

 

いや違う。

 

 

リンゴのなかには種がある。

 

 

地面に落ちた後リンゴが腐っても、そのリンゴからまた芽が生える。

 

 

だから、まだリンゴには生命が宿っている。

 

 

リンゴの最期とは、いのちの連鎖が終わったときだ。

 

 

 

 

 

このように、いろんな考え方がある。

 

 

 

もちろんこれにも明確な答えは決まっていない。 

 

 

 

私はこの話しが好きで、生命ってこういう風に何層も重なっている曖昧なもののような気もする。

 

 

  

私が年老いて星になっても。

 

 

娘や孫たちが生きているなら、まだ半分は私が地球上に残っているような気もする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いのちとは何か。

 

 

私はそれをずーっと考えてきた・・・

 

 

・・・つもりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日。

 

 

あるお客さんが先日、1年ぶりに来店した。

 

 

30代半ばの彼は、嫁さんと子供がいて、マイホームを購入直後に大病を患った。

 

 

生死を彷徨い、闘病の末に生還した。

 

 

 

 

 

 

抗がん剤のせいか、頭にはまだバンダナを巻いていた。

 

 

 

 

『仕事は失なったけど、生きていることに本当に感謝です。』

 

 

『あとは命が尽きるまで精一杯生きるのみです。』

 

 

 

彼の言葉は重かった。

 

 

いのちと比べれば、仕事は失うなんて些細なことなのだ。

 

 

 

 

彼は、生きるとは何かを、私以上に深く考えたに違いない。

 

 

それは価値がある経験だったと思う。

 

 

 

 

 

いくら学問で理屈をこねたところで、

 

 

生き死にを体感した人には敵わないと思った。